2016年御翼12月号その2

                                       

戦争は、一部の人たちのビジネス  

 核兵器禁止条約に向けての動きで、世界唯一の被爆国である日本が反対した。その理由は、核保有国アメリカが、同盟国には反対するよう要請したからだという。しかし、日本は引き続き核軍縮に向けては働きかけるというが、被爆国としてのリーダーシップを日本がとることは難しくなったとも言われる。核兵器の問題について、父は一九八三年の「えくれしあ」にこう記している。

 核兵器の持ち込みと配備の競争は、人間の力では、どうしても抑止力がなくなっている。権力の座にある人々の一方的判断によって、勝手に決められて行くからである。そして、権力者がこのことの誤りに気がつくのは、何らかの手違いで(核爆弾が)誘爆した時であろう。人間がこのまま、核装備の競争を続けてやって行くならば、必ずそのようなことが起こってくる。神の審判は、このようにして実現される。「生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである」(ヘブル10・31)。
「えくれしあ」1983年12月 佐藤陽二)
 また、戦争については、以下のように言っている。

 戦争は、一部の人たちのビジネスであると言っても、決して過言ではない。純真で忠実な軍人が、それらの人々におどらされている場合が多い。あれだけの頭脳と訓練と努力とエネルギーを、世界の平和のために用いたなら、どんなにすばらしいことであろう。軍備がないと、不安であるという人もいる。またソ連や米国のような大国にたよらなければ、日本は立つことができないともいう。しかし聖書は、次のように述べていることを忘れてはならない。「かのエジプトびとは人であって、神ではない。その馬は肉であって、霊ではない。主がみ手を伸ばされるとき、助ける者はつまずき、助けられる者も倒れて、皆ともに滅びる」(イザヤ三一の三)。信頼すべきものは、「恐れてはならない。わたしはあなたを助ける」(同41の13)と言われた神だけなのである。 (「えくれしあ」1983年8月 佐藤陽二)

核の問題解決、戦争やテロが根本的になくなるためには、神の絶対的な裁きにお委ねして、私たちクリスチャンは、個人的にできることに最善を尽くすしかない。それが、「この世的な争いにはかかわらず、御心が実現するよう、事柄の解決だけに目を注いで行く」ことである。
 マザー・テレサは、「平和も戦争も家庭から始まる」と言った。本当に世界平和を願っているなら、まず自分の家が相互に愛し合うことから始めて行かなければならない。ユネスコでも「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」と言っている。
そして、人の心の中に、そして家庭に平和をもたらすのは、イエス様の救いである。
以下は1977年7月十日(日)の牛込教会の週報から(「えくれしあ」より)
 世界に平和を来らせる道は、ただ一つしかない。キリストを伝えることである。キリストのことを思うと、自分中心にだけ考えていたことが分かり、相手の立場を、同情的に見る目が与えられる。キリスト教を伝えるのでなく、キリストを伝えるのである。伝道の専門家とは、第一にキリストを伝えるために、自分の存在をかけていること。第二に、どうしたらこの日本に、キリストが伝わるかを、絶えず反省的に配慮している人のことである。
 毎年、エルヴィスの命日8月16日の前夜は、グレイスランド(エルヴィスの館)でキャンドルライト・ビジルが行われ、一万人のファンがエルヴィスの「墓参り」をする。私も今年は参加したが、列に並んでいると当然の大雨で行列は解散し、例年なら3~4時間並ばないと、墓前にはたどり着かないのに、1時間ほどでグレイスランド敷地内の墓に行けた。
この日、白人警察官による黒人射殺に対して抗議する黒人のデモ隊が、グレイスランドに向かう予定だった。そこで、メンフィス警察は、バリケードを築き、特殊部隊まで出動させ、グレイスランドの1ブロック南で待機していた。
以下は、翌朝の新聞記事からの引用である。
〈メンフィスポリスの証言〉
Black Lives Matter(黒人の命を大切に)運動の一団が激しい動きをしだしたので、出動準備の命令が出された。出動命令を待っていると、空に雷鳴が轟き、雷が光り、エルヴィスの「今夜はひとりかい?」が流れてくると同時に、大粒の雨がバケツをひっくり返したように落ちてきた。デモ隊も自然解散となった。エルヴィスは自分の家の前で暴力が振るわれるところをストップしたんだと思った。仲間の警察官も同じ意見だったよ。私はエルヴィスのファンではなかったけど、いまはもう彼のファンだよ。

 もちろん、神学的には天気も用いて善をなすのはエルヴィスではなく、天地創造の神である。しかし、そこには、平和を願うエルヴィスの天上での祈りがあったはずである。また、神と人とを愛していたエルヴィスを思うと、人との争いごとが馬鹿らしく思えてくる。それならば、イエス様ご自身を思ったならば、私たちは、なおさら、他人に優しくなれるはずである。

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